卒業しても波瀾万丈
アトリエ松竹梅物語、今回は、美大卒業後です。卒業したからと言っても、明るい未来が待っているわけではありません。
筑波大学を卒業し、地元で教員採用試験を受験するため、4年間お世話になったつくば市に分けれを告げ、実家に戻りました。
実家は落ち着けて快適なのですが、楽しく充実していた大学生生活が終わり、ちょっとロスでしたね。
周りの優秀な同級生たちはそれぞれ新しい道へ旅立ち、輝かしい未来が確約されているように感じていました。それに引き換え自分は、実家にこもって受験勉強・・。
今なら、そんなの全く大した問題ではないと胸を張って言えるのですが、当時は自分だけ落ちこぼれた気分でした。
倍率高き教員採用試験
教員採用試験は一次試験と二次試験があり、一次試験は一般教養・教職教養を中心とする筆記試験で、二次試験は面接でした。また美術の先生になる場合は二次試験の科目として、実技試験もありました。
当時は予備校に通うとか、通信教育を使うとか、そういく考えは思いつきませんでした。本屋で対策本を買ってきて、一次試験までの数ヶ月間は実家にこもってニートしながら勉強していました。
私の取得した教員免許は中学美術と高校美術であり、中学美術で採用試験を受験することにしました。美術の先生なんて学校に1人か2人、かなり高倍率だったのを覚えています。
これを書いている令和6年度は、人手不足で合格しやすいのかも知れません。
一次試験は7月くらいだったと記憶しています。大学を卒業したのが3月、卒業までの多忙さはブラック企業並み、売れっ子アイドル歌手並みでしたので、当然試験勉強なんてできていません。
4月から問題集や参考書を購入してあたふたと勉強を始めましたが、当然間に合うわけでもなく、あえなく一次試験で不合格となりました。
次の年は仕事をしながら再受験し、一次試験は合格しましたが、二次試験で不合格となってしまいました。
この時は合格の手応えがあったものの不合格だったため、学校の先生への道は諦め、学習塾での勤務を続けることにしました。
仕事開始
最初の受験終了後、いい若いモンがこのまま実家にこもるのもどうかと思い、当時高給だった引越屋さんでアルバイトを始めましたが・・・
ある時、荷物を持って階段を下っている時、あまりの暑さ・疲労にクラッときて、グキッと足をくじきました。
今までに経験したことのない痛みでした。これはまずいぞと思いました。
翌日バイトは休ませてもらい、病院で診てもらったところ、
・・・剥離骨折。
当時、体力には自信あったのですが。しばらく無理は禁物ということで、辞めさてもらいました。
学習塾業界へ
さてこれからどうしよう?となった時、バイト仲間との雑談を思い出しました。
先生になりたいなら、こんな引越屋でバイトするんじゃなくて、塾とかそういうところでバイトしてキャリアを積んだらいいのに。
なるほどもっともだと思い、学習塾の求人を探し始め、たまたま募集していた地元の学習塾で勤務することにしました。
ただし学習塾業界に美術の先生としての求人はありません。そのため数学・理科の先生として勤務することにしました。
高校時代、理系クラスだった経験を活かすことにしました。
私の教員免許は中学美術と高校美術。数学や理科の教員免許はありませんが、ほとんどの学習塾の先生は教員免許を持っていません。就職後に教える技術を身につけていきます。
この勤務先で頼まれたのが、
『今度の講習で使うテキスト、表紙が寂しいから、何か描いてくれない?」
それが今後の私の人生の中心となる、ペン画人生の始まりとなりました。
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